疑わざるをえない

人間は年々猜疑心を深めていく生き物だ。

大学に入学したとき、ある教授からこのようにクギを刺された。

「これからは本を読むとき、その本を信じないようにしなさい。常に疑って読むように。作者が正しいことを言っている保証はどこにもない。本の内容を鵜呑みにしていいのは高校生まで」

その教授いわく、高校生までは「生徒」だから、「徒(いたずら)に生きる者」としての立場を踏まえて、教えられたことを学べばよいというのである。

本を読むときも、そこに書かれてあることをただ吸収すればよい。

しかし大学生は「学生」である。「学んで生きる者」である。そこでの学びはもはや勉強ではなく学問だ。

つまり、じぶんから問うて、学ばねばならぬ。問題点をじぶんから見つけていく態度が求められるというわけだ。

本に書かれてあることも鵜呑みにするようなことはせず、じぶんの頭で考え、積極的に疑いなさいと、教授は言った。

この話は当時まだ生徒の気持ちが抜けていなかったぼくの心に刺さった。

あれから20年以上たって、ぼくは年輪のぶんだけ、いろんなことを疑い、心に問うことができるようになった。

本に限らず生活の中で起こるいろんなことを疑うようになった。

今のぼくは、じぶんという人間をも疑っている。まだまだじぶんは未熟なのに、その未熟な中で確固たる正しさを求めようとしている、そのような傲慢な態度に対する疑いだ。

話を変えよう。

つい最近ぼくが経験したある出来事のことである。

多少人物の相関関係に脚色を加えているが、おおむねじぶんに見えたことをそのまま書く。

その人は、じぶんが他者から攻撃されていると言った。じぶんは被害者だというのである。

話を聞いていると、実際にその人は攻撃されていて、苦境にあることはわかった。ぼくは大いに同情した。

しかしそれからしばらくして驚くべきことが起きた。

その人が平然と、他人をいじめているのを目撃したのだ。

仲間を作って、つるみながら、敵とみなした相手に向けて、陰湿に言葉の暴力を繰り返していた。

まるで敵と認定した以上は、手段もえらばずなにをしてもいいと考えているかのようだった。

ぼくは気づいた。

その人はじぶんのことを被害者だと言ったが、実際には被害と加害のつり合いはとれていたのである。

人間はじぶんがいじめる側に立ったときのことは覚えていないものだ。その人は心底から、じぶんは一方的な被害者だと思い込んでいるのだろう。

じぶんは弱者であると信じて疑っていない。たしかに一面的にみれば、弱者である。

しかし実際には、いじめる側として他人にマウントをとる態度も人格の根底に存在していて、それこそが他者から攻撃され、弱者としての立場をつくる原因だったのである。

その人の態度を注視していると、いろいろなことがみえてきた。

じぶんに非があることを認めようとしない。どうやら、ごめんなさいが言えないようだった。

だれかに非をとがめられたら、じぶんは弱者だと主張して自己正当化したうえで、相手を敵とみなして攻撃するのだった。

じぶんは一方的に攻撃を受けた被害者だと思いこんでいるから、窮鼠猫を噛むかのごとく、パニック状態でひたすら相手を攻撃し続ける。

謝ることもできないし、じぶんに問題があることも認められないので、論理的な解決をはかることができない。

その結果、差別も脅迫もおかまいなしに人格攻撃を繰り返していた。ともかく相手を屈服させればよいという考え方だったのだろう。

もはや、被害と加害の関係は逆転している。その人は圧倒的な加害者だった。

やがてそういうじぶんの問題が多くの人に向けてあらわになると、心のバランスをとるためか、なんら関係のない他人に向けてむやみに感謝の気持ちを伝えていた。

それでもやはり、じぶんに問題があるとは思っていないようだった。

ぼくはそういう人がいるということは知っていたが、てっきり猟奇事件の登場人物のように珍しい存在だと思っていたから、身近にいることがわかって驚いた。

ぼくは結局、その人と距離を置いた。

人間の一面を疑わずにいると、とんだ悪癖が後ろ側に隠れていることに気づけないまま、ということがある。

疑うくせをつけることは、処世術としても役に立つのである。

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