生活に「花」がない

今、ふと思った。

ぼくの生活には、花がないのだと。

ぼくは独り身で、百姓をしながら細々と生計を立てている。

畑仕事は独学ながら少しずつコツを得て、気楽にやれるようになってきた。

昔はひいひい言いながらやってきたのだが、コツを得るにしたがって力任せの仕事が減ってきて、いろいろと合理的に進められるようになってきたというわけだ。

それで、時間の余裕も少しは出てきたのだが、こうやってブログを書いたり、料理をしたり、トタンにペンキを塗ったり、ぼくのやることは実用に特化している。

ところで昨今、コロナウイルスによって時間に余裕が生まれた人が多くなったようだ。

先日配達の帰りにある家の軒先をみると、竹の花入れが掲げられてあって、そこにスズランやムスカリを飾ってある。

ふだんから仲睦まじいご夫婦のお宅で、いかにもといった風情だ。一時車を止めて、見入ってしまった。

またつい先日、同じく配達の際に隣町にある国道沿いの民家の軒先に、藤の花が束になってつるされていた。

ぼくがこれまで見ていなかっただけかもしれないが、あんまりふだん、こういうことをなさっている家を見たことがない。

こういう時節柄、花を飾る家庭が増えたのかもしれないなと思った。

しかしぼくはというと、典型的な花より団子気質で、とんと風情がない。

手に取るなやはり野に置け蓮華草

という俳句がある。もともとは遊女を身請けするようなことはしなさんなという意味らしいが、言葉の通り、美しい花は野に咲いているのがよいのだという意味でぼくは受け止めている。

もうひとつ。

ムーミンの物語に出てくるスナフキンは、谷間に光り輝くガーネットの畑があることを仲間に話した。

ガーネットは宝石だ。スニフはぜひじぶんのものにできないかと思い、そのガーネットの畑がスナフキンのものかをたずねた。

そこでスナフキンが言う。

僕のものではないよ、だけど僕が見ている間は 僕のものなのかもね

『ムーミン谷の彗星』における一節だ。

スナフキンのこういう受け答えは、少しシニカルでもあり、ニヒルでもある。

今どきの言い方をすれば、スナフキンはミニマリストということになるのだろうか。

そこにあるものを見ている間はじぶんのものだから、所有するよりも身軽でいい、というのだ。

ぼくはミニマリストとは程遠い生活をしているが、この考え方はいいものだと思う。

ぼくには花心はないが、うちの玄関先の土手にはあれこれと花の球根を植えている。

基本的にはスイセンやヒガンバナの類で、モグラによって土手が崩れるのを防ぐために植えているのである。

あと少し雑談をしよう。

以前、夫も亡くなり、じぶんももう体力が厳しいからという理由で、あるご婦人から畑を譲り受けたことがあった。畑では野菜と一緒にいろんな観賞用の花を咲かせていた。

話を聞くと、以前は夫が耕運機で畑を耕してくれていたのだが、「お前はあちこちで花を植えてるから、むやみに耕すわけにもいかなくて作業がしづらくて困る」とぼやいていたらしい。

ほほえましい話だが、ぼくはどちらかというと、この夫に肩入れしてしまうような気質だ。畑を借り受けてから、ナツズイセンだけ軒先に植え替えて、あとはトラクターでならしてしまった。

今年はその畑でつるなしインゲンを育てている。

うちの圃場には雑草は生えても花は咲かない。以前コスモスが咲いていた一角があったが、種が衣服にまとわりついてうっとうしいので、刈り取ってしまった。

もちろん玄関先に花を飾ることもしない。

こうやって文章にすると、ずいぶん殺伐とした話だと思う。生活は快適だが、味気ない。

ひとりで生きるとはそういうことだと納得はしている。

じぶんひとりで生きている以上、生活にじぶんひとりぶん以上の多様性を持たせることはできない。

じぶんのすることがすべてで、それは孤独で気ままでいいものだが、じぶんがしないことにはっと目をひかれることもなくなる。

そういう「じぶんがしないこと」をする人がそばにいたら、きっと人生はもっとにぎやかになるのだろうな、と思う。

つまり、ぼくの生活にはいろんな意味で、花がない。

さびしさがふと胸を打つ日曜の朝だった。

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