バジルの種まき、キャベツの定植

今日の作業はバジルの種まきと、キャベツの定植。

バジルは半ば営利だが、キャベツは売るつもりがない。30粒ほど入って100円の種を、ペーパーポットで育てて栽培する。

バジルの播種は順調に終わった。が、キャベツを植えるときに問題があった。

以前トラクターで耕耘しているときにはなにも思わなかったのだが、キャベツを定植しようと決めた場所は、土がごちごちの岩のようなかたまりになっていて、きわめて状態が悪かったのだ。

耕し方が足りていなかった。

植え付けながら、果たして根が活着してくれるかどうか、どうにも心もとない。

が、自家用だということを考えると、べつにどうでもいい。

ぼくは百姓をしているくせに、家庭菜園となるとてんでまともに栽培する気がなくなってしまう。じぶんでも不思議だが、身が入らないのだ。

家庭菜園といっても、じぶんひとりのために栽培するからだろう。だれを養うでもない気楽さが、怠け心につながっている。

家族がいればちょっとはまともな食事を作ろうと思うが、じぶんひとりならインスタント麺でじゅうぶんという、アレだ。

しかし野菜というのは不思議なもので、人間が手入れをさぼると、さぼったぶんだけ生育がわるくなる。

科学的な考え方をよそにおくと、植物には人間には備わっていない別の感覚器官があるのではなかろうかと思うことがある。

おなじ圃場でも、ぼくがよく通るところだけ妙に生育がよいというようなことがある。

そんなことがあると、もしかしたらこいつはぼくの存在をわかっているのではなかろうかと勘繰ってしまうのだ。

もちろんまさかそんなことはない、と思いつつも、植物にはなんら意識がないと断ずるわけにもいかないと思う。

虫をとらえて栄養にしてしまう、奇妙な習性を持つ植物がある。食虫植物だ。

栄養環境の悪い土地において、虫も栄養にするようになったというのだが、植物に意識がないのなら、このような進化は起こりえないだろう。

「栄養がないのなら、虫でもいいから栄養にしてしまおう」という生命体としての意志がなければ、決してなしえない進化だからだ。

人間のような発達した意識はないとしても、よりよく生き延びようとする意志は植物にもあるのではないか。

まあ、だからといって、どこかのうわさで聞いたような、クラシック音楽をうちの野菜に聞かせてやろうというような気にはなれないが。

ああ、そうそう。キャベツのペーパーポットの柵が余っていたので、トマトとピーマンとナスの種もまいていたのだが、たぶんピーマンであろう種が発芽していた。

たぶんピーマンだと思う。

どこにどの種をまいたか、はっきり覚えていないのである。

なぜかおわかりになるだろうか。

家庭菜園用だからだ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました